『池上梅園を3倍楽しくする方法』の第2回は、茶室・清月庵(せいげつあん)が復活までの歴史をご紹介します!
せっかく池上梅園を訪れるのなら、梅園の誕生、茶室・清月庵と聴雨庵の物語、水琴窟の謎、梅の種類などを知ってから来園されると池上梅園が3倍楽めます!
そこで“旅すきsite”では、池上梅園を3倍楽しくする方法を詳しく紹介します♪
初めて訪れる方、何度も来園されている方も必見です!
関連情報:池上梅園 梅園の誕生
二つの茶室
池上梅園には、茶道や句会などの催しとして利用できる茶室と和室があります。
二つの茶室は梅園入口に近い方が清月庵(せいげつあん)、奥にあるのが聴雨庵(ちょううあん)です。
清月庵と聴雨庵の茶室は、池上梅園で建築されたものでは無く、戦前、戦後、昭和に渡り色々な人々の歴史を経て、池上梅園に移築され再築たものです。
今回は、梅園に移築され、平成元年に「茶室・清月庵」と命名され、復元されるまでの壮絶な運命を梅園の綺麗な梅の画像と一緒に辿ってみたいと思います!
◆清月庵の物語
大正初期、川尻家が池上本門寺前で自宅兼ねた料亭を経営しており、広い庭園があるお屋敷でした。
川尻家とは、指物師・建築家だった川尻新吉と息子の川尻善治の親子のことです。
川尻新吉氏は、東京品川で川尻工務店を営んでおり、川尻工務店の半纏には、「三本川」が染められており、当時は半纏を羽織って仕事をしていたそうです。
「三本川」の継承を承認されたのは現在の株式会社石間工務店の創業者である石間桂造氏だけと伝えられているとか。
川尻新吉と善治親子
善治の父である建築家の川尻新吉氏は、机、椅子、タンスなどの家具を作る指物師(さしものし)でしたが、最終的には建築士になりました。
息子の川尻善治氏は数寄屋建築の設計・施工を行い、世に数々の名建築物を残しています。
川尻親子は、陶芸家・北大路魯山人邸や日本画家の伊東深水氏の自宅兼画室などを手掛ける建築家です。
川尻家と西田邸
昭和61年まで西田邸と呼ばれ、もともと川尻家が自宅を兼ねた料亭と広い庭園として、池上本門寺の山門前に建てられたお屋敷でした。
「西田邸」と呼ばれる由来は、最後の持ち主である7代目のお名前から「西田邸」と名付けられたそうです。
戦前の西田邸
西田邸が建てられた当時は、600坪の庭園が広があり、園内では、息子の善治氏が花好きだったことから造園に力を入れ温室の華壇も造ったそうです。
この頃は、大工の伝統的な技が黄金期を迎え、庭園内には清月庵を含め5棟の数寄屋造建築が建てられました。
温室の華壇は「池上華壇」として錦の御旗を掲げ、昭和初期に発行された「東京南部景勝案内」に“花と料亭”を標語にしていたと紹介されました!
当時は大田区蒲田に松竹撮影所があり、映画俳優や画家・文人が池上周辺に住んでおり、西田邸をロケ地として利用していたそうです。
昭和になると早々に川尻氏が鎌倉へ居住地を移すことになり、広い土地は切り売りされることになりました。
戦後の西田邸
戦後の持ち主は京都の方で、別荘として使われていたそうです。
昭和61年までに残った西田邸には、切り売りされ最終的に500坪でした。
残った500坪の土地には、数寄屋造の二階建ての母屋、茶室は清月庵の他に一つの茶室と門番所のついた傘天井の数寄屋造門の4棟だけでした。
門に続く船坂塀、二階建ての母屋、茶室は釘を使わず手斧(ちょうな)削りでまさに贅沢で技を極めた建築物でした。
清月庵の材料
大工の伝統的な技術が世に認められる絶頂期であり、檜皮葺きのそれぞれの建築には全国から集めた銘木が多く使われ、驚くべき贅沢だったそうです。
清月庵の柱は孟宗竹(モウソウチク)、皮付の槐(えんじゅ)の木、杉など、踏み込み床は桜の一枚板と、まるで木の饗宴です。
どこもかしこも匠の技が光っています。
部屋と部屋の間に風の流れや光を取り入れる工夫がされた欄間彫刻、書院造りの違い棚の天袋や地袋の意匠、電燈傘の繊細さなどの気配りは全て川尻氏の手作りであり高価なものでした。
中島先生の闘い
バブル期の昭和61年、大田区の迎賓館とも言える西田邸は売りに出され、やがてマンション業者が購入し、マンション計画が進み、西田邸の解体計画が実行されることになりました。
この計画を知った華道・茶道家である中島恭名先生(表千家茶道教授)は、解体中止と保存を求めて、「池上のみどりと環境を守る会」を結成しました。
“名建築の川尻邸”を残すため、大田区に買収を求める陳情活動を開始するなど、大規模な保存運動が始まりました。
中島先生の全身全霊をかけた保存運動は、マスコミや日本建築学会までも巻き込みましたが、その願いは届かず、マンション業者の危機感を煽り、西田邸は破壊されました。
中島先生は、解体される建築物の中から、かろうじて復元可能と思われた清月庵を解体、保管して、再築を待つ決断をしたそうです。
当時の計画では、一時的に京都に再築されることになっており、京都に運搬されたそうですが、昭和63年に大田区からの要請で、池上梅園に復元されました。
清月庵の解体から保存、復元までの費用全てを中島先生が私財を投じて大田区へ寄贈され、大田区池上に戻ってくることができました。
池上梅園へ移築
大田区は伊東深水と川尻善治の『ゆかりの深い池上』として、池上梅園に移築・再建し「静月庵(せいげつあん)」と命名されました。
平成元年に池上梅園の茶室として復元され、お茶や俳句を楽しむ茶室として、誰でも利用できるようになりました!
大田区公共施設利用システム
うぐいすネット
利用マニュアル・申込方法
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/uguisunet_annai/
茶会・和室の申込方法
清月庵、聴雨庵、和室は大田区公共施設利用システム(うぐいすネット)に登録後、申し込みをすると茶会や句会などの催しものに利用できます。
住所:大田区池上2-2-13
開園時間:午前9時から午後4時30分
入園受付は4時まで
休演日:2月・3月を除く毎週月曜日及び年末・年始
池上梅園事務所
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hall/baien/index.html