東京都大田区の文化遺産の一つでもある「馬込文士村」は、大正の終わりから昭和の初めを中心に現在の大田区馬込、山王、中央周辺に多くの作家や芸術家が移り住んだことから後に名付けられました。
“旅すきsite”では、馬込文士村43名の幼少期、作家・芸術家になるキッカケ、交流関係、受賞作品などを詳しく紹介したいと思います!
もちろん、一人一人の巨匠を語るうえでポイントになるゆかりの地や記念館もご紹介します。
一人目は「浮世絵師・日本画家 伊東深水(いとう しんすい)」です。
深水氏の「ゆかりの地」である池上梅園の梅と一緒に、生き抜いた時代を年号順に紹介していきます。
伊東深水(Shinsui Ito)
大正・昭和期の浮世絵師・日本画家・版画家として名高い伊東深水(いとう しんすい)は、歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画の特徴を生かしたやわらかな表現による美人画が有名です。
関連情報:池上梅園 梅園の誕生
深水氏は、現在の大田区池上周辺に26年間、住んでおり、大田区とは切っても切れない関わりがありました。
深水氏のことを知らない方々も、実娘である女優の朝丘雪路さんをご存知の方も多いのではないでしょうか?
美人画で一躍有名になった深水氏ですが、画家としては違う画題を描きたいと望んでも、美人画の注文ばかりで、画家として戸惑いを覚えていたそうです。
美人画のモデルは妻の好子さんのが多く、高い評価を得ていました。
戦後は、美人画と並行して独自の思考を生かした日本画制作に数多く取り組みました。
現在も深水氏の画歴やゆかりの地を巡るファンがあとを絶たちません。
深水の生い立ち
明治31年に東京都深川区西森下町(現在の江東区)で生まれ、間もなく、伊東半三郎(はんざぶろう)と、まさ夫妻の養子になり、とても可愛がられていたそうです。
半三郎は木材問屋を経営していましたが、道楽の株で失敗し裕福だった生活が一転して貧窮しました。
9歳になり、深川小学校を2年生で中退し、家計を支えるために住み込みで看板屋の小僧として働いたそうです。
10歳になると深川の東京印刷の活字工として働きましたが、電車賃も無く、わらじを履き、徒歩で通勤する日々が続きました。
深水氏は苦しい生活でしたが昼間は働き、夜は絵を描き、水彩画や日本画家の手ほどきを受けていました。
日本画家を目指すキッカケ
12歳の時に深水氏は速水御舟(はやみ ぎょしゅう)の「小春」に魅了され、日本画家を目指すことを決意しました。
ちなみに、速水御舟は大正初期に院展に出品し横山大観、下村観山らに高く評価され、川端龍子と共に日本美術院の同人に推薦される天才日本画家です。
速水御舟「小春」
12歳の深水氏が日本画を目指すキッカケとなった速水御舟の「小春」についてご紹介します。
明治43年の作品で110.5×54.5㎝の掛軸です。
季節は秋、秋風に草がゆっくり揺れている背景に、公家または地位の高い武家の子どもが一人、バラバラになりそうな檜扇(ひおうぎ)を左手に持ち、子供の足には大きすぎる浅沓を履いて、ゆっくりそぞろ歩く姿は無邪気さを物語っています。
古典模写などによる修行の痕が感じられる表現法と、フジバカマなど秋草の描き方から、写生によって得られた軟らかな表現が見られる作品です。
この作品は名古屋市昭和区の桑山美術館に作蔵されています。
桑山美術館
名古屋市昭和区山中町2-12
http://www.kuwayama-museum.jp/index.htm
多くの名作を残した御舟氏は、昭和期に「名樹散椿」を発表し、美術品として最初に重要文化財に指定され東京都渋谷区にある山種美術館に作蔵されています。
山種美術館は、創業者である山崎種二が個人で集めたコレクションをもとに日本初の日本画専門美術館として開館しました。
二代目館長・山崎富治とともに、速水御舟作品を一括購入しているため、重要文化財を身近に感じることが出来る美術館です。
山種美術館
東京都渋谷区広尾3-12-36
http://www.yamatane-museum.jp/index.html
鏑木清方へ入門
明治44年、日本画家である結成素明(ゆうき そめい)の紹介で、浮世絵師・日本画家の鏑木清方(かぶらき きよかた)に入門し、日本画を学びます。
歌川国芳(うたがわ くによし)から菊池容斎→月岡芳年→水野年方→鏑木清方→伊藤深水と続く流れを「玄冶店派(げんやだな)」といいます。
江戸時代末期の浮世絵師・歌川国芳の浮世絵・美人画技法は時代を経て、昭和初期の伊東深水へ受け継がれました。
清方に入門したのは、明治30年の門井掬水を筆頭に林緑水、石井滴水、西田青坡、松田青風、伊東深水など数十人おり、川瀬巴水(かわせ はすい)もその一人です。
名前の由来
伊東深水の名前は画家としての名前であり、本名は伊東一(いとう はじめ)と言います。
「深水」の号は師匠である鏑木清方(かぶらき きよかた)により命名された名前です。
生誕の地である深川の「深」と清方の清から偏の「水」をとって「深水(しんすい)」となりました。
少年画家の誕生
明治45年、鏑木氏に入門した翌年に巽画会展で、「のどか」が入選し、大正2年に同じく巽画会展で「無花果の影」が褒状1等を取るなど、立て続けに世に認められる画家に成長していきました。
師匠である鏑木氏は画家として、まだ早すぎる、無理だと心配しており、深水氏に自分の挿絵の仕事を譲ってまで、場数を踏ませ、才能におぼれる前に救いの手を差し出していたようです。
大正5年から深水氏は挿絵の仕事に力を入れ始め、東京日日新聞(毎日新聞の前身)などに挿絵を描く事に専念し文展などに出品を控えるようになりました。
同年に、版元・渡邊庄三郎に新版画運動に共感し、新版画運動に力を入れ、深水氏や川瀬巴水らの影響は計り知れなく、木版画会に大きな影響を与え新版画が誕生しました。
新版画と新版画運動
明治30年頃になると、受け継がれた浮世絵版画は衰退しほぼ消滅状態になりました。
新版画(しんはんが)とは、明治30年前後から昭和時代に描かれた木版画のことです。
新版画運動は、浮世絵を再興する運動で、従来の浮世絵版画と同様に、版元(はんもと)を中心として、絵師(えし)、彫師(ほりし)、摺師(すりし)による分業制作を呼びかけ、浮世絵の近代化、復興を目指しました。
次世代の木版画を作る運動が始ままったのは明治30年頃ですが、実際に開花したしたのは、大正時代に入ってからだったため、新版画は「大正版画」とも言われています。
深水氏は、渡辺版画店から第1作目として「対鏡」を版行し、その後も引続き、美人画シリーズを刊行し、川瀬巴水は第1作目「塩原畑下り」を版行し、新版画の制作に携りました。
巴水氏と深水氏は、大正新版画の第一人者として世に影響を与え、名を残す活躍をしました。