好子夫人と結婚
大正8年、深水氏(21歳)の時に好子夫人と結婚し、現在の文京区にあたる小石川区で新居を構え長男と次男が授かります。
好子夫人が風呂上りに竹の緑台を置いて団扇で涼む様子から「指」が誕生し、美人画の画家としての評価を高める作品となりました。
大正11年、平和記念東京博覧会で「指」が2等銀牌受賞しました。
池上時代へ
昭和2年、深水氏(29歳)の時に「羽子の音」で帝展の特選を受賞し、この年に自宅の大井町に深水画塾を設立し、品川区、大田区の地へと移っていきます。
池上に決めたのは、のんびりした田園風景が広がり、自由に絵を書くに相応しい環境と庭に画材になる植物を多く植えたかったことが一番の理由だったそうです。
池上の情景から誕生した作品は「秋晴」「露」「麗日」が有名です。
昭和4年、木版画「秋晴」は、秋の心地よい風が草花を揺らし、一人たたずむ女性の姿を描いた作品です。
モデルは女優の初代・水谷八重子さんで、この作品は帝展第10回特選首席になっています。
この頃の深水氏は画家としても体力的にも充実しており、芸術家としての評価も高く数十人、数百人の弟子がいたそうです。
昭和5年、品川区大井の南浜川から大田区池上へ通勤していましたが、深水氏が32歳を迎え、通勤が大変と言う理由から自宅と画室を大田区池上に新築することにしました。
深水氏が自宅と画室の設計・施工を依頼したのは数寄屋建築の川尻善治氏でした。
昭和10年、料亭勝田の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)を授かりました。めかけの子ではありましたが、深水氏は誕生を喜び溺愛していたそうです。
池上の広い画室と庭園
池上の画室と庭園の敷地は1000坪以上あり、緑地の下に池が張り出した料亭の造りになっていてその広さは半端ではなかったそうです。
こだわりの庭園には梅の古木とアジサイ、蓮、萩、ツツジ、桜、紅葉などの四季折々の花を植え、池には80尾の緋鯉が泳いでいたそうです。
焼失後、小倉誠へ
昭和20年、深水氏(47歳)の時、戦争の状況が悪化したため、長野県小諸に疎開したのですが、その2ケ月後、空襲で自宅が焼失してしまいました。
昭和22年、第3回目日展に出品した「鏡」は芸術院賞を受賞し、誰もが認める美人画の代表作家となりました。
昭和24年、深水氏は土地を築地で料亭を経営していた小倉誠氏に譲り、鎌倉に画室を建て引っ越しました。
東京都へ条件付き譲渡
小倉氏が亡くなり、池上の土地は親族から東京都に対して、後世に残すことを条件に譲渡され、昭和53年から大田区に移管されました。
のちに、深水氏の画室を設計した川尻善治氏が建てた静月庵などが池上梅園に移築され復元されました。
関連情報:池上梅園 茶室・清月庵
昭和27年、深水氏54才の時、無形文化財の版画技術を技術記録として後世に残すため、浮世絵画家である深水氏に文化庁から木版画制作を依頼され、「髪」を制作に取り組みました。
この作品の版木と順序、完成品は文化庁で保管されています。
兄弟子の川瀬巴水
昭和28年、入門した時から目をかけてくれた兄弟子の川瀬巴水と現代木版画展を開催する。
昭和45年、歌川派の正統を継承する美人画の巨匠として知られる深水氏は、この年、勲三等旭日中綬章を受章しました。
昭和47年3月2日に鏑木清方が老衰のため鎌倉市の自宅で亡くなる(享年93才)と、後を追うように同年5月8日に膀胱がんのため東京信濃町の慶応病院で逝去 (享年74歳)
伊東深水天井絵
深水氏は現在、品川区上大崎にある隆崇院に眠っています。
隆崇院の本堂に入り天井を見上げると、深水氏と弟子40余名の弟子である画家よって描かれた彩り豊かな天井絵があります。
天井中央に好子夫人の七回忌(昭和37年逝去 )に上納された牡丹をメインとした深水作「牡丹唐獅子図」があり、周囲には一門の画家によって描かれた大小20面の鮮やかな花の絵が浮かび上がっています。
深水氏の隣のお墓には昭和45年に亡くなった深水氏の次男である日本画家で内閣総理大臣賞を受賞した伊東万燿も眠っています。
隆崇院
品川区上大崎1-9-24
JR・東急目黒線 目黒駅徒歩約12分