大田区文士村に名前を残す書家・熊谷恒子さんのギャラリートークに行ってきました!
熊谷恒子さんは、師匠の教えから独自の境地を開拓した女流かな書の第一人者です。
かなの美展
今回のかなの美展「恒子かく」では、恒子さんの師匠である尾上柴舟(作品:さきたわむ)、岡山高蔭・筆(作名:とぶかりの)、恒子さんの祖父である江馬天江の書など、熊谷記念館所蔵の中から選び抜かれた書が展示してありました。
恒子さんが描く“かな書”について、学芸員の方が当時の様子や子弟関係、恒子さんの旦那様のお話を『書』に合わせて説明して下さったので、『書』に心打たれ、女性として恒子さんに興味を持ちました。
若山牧水「大なみに」
ギャラリートークの最初の作品は、若山牧水の作品「大なみに」屏風でした。
学芸員の方から屏風の中で生き生きとした一文字一文字の細い線や太い線、自由な位置からの書き出しなどの技法についてお話を聞きました!
変体仮名
現在では使用しなくなった文字のことを変体仮名(へんたいがな)または異体仮名(いたいがな)と言うそうです。
なお、現在、使用されている字体を調べたところ「現用字体」と呼ぶようです。
散らし書き
散らし方に法則はなく、行の頭などを揃えず、また草仮名(万葉がな・ひらがなの原形)や平仮名(現在のひらがな)を混ぜたり、墨の濃淡、筆の太さや細さなどを固定せず、思いのままに散らして書くこと。
連綿線
文字と文字を切らずに繋いで書いてゆく書き方を「連綿(れんめん)」と言います。
熊谷恒子のあらまし
熊谷恒子(くまがい つねこ)さんは、明治26年に京都で誕生します。
恒子さんの祖父は、明治期の書家である江馬天江(えま てんこう)で、江馬氏は、書家・漢詩人・医師として活躍した京都を代表する文人です。
大正3年に夫・熊谷幸四郎と結婚し、転勤に伴い東京都大田区南馬込(現在の熊谷恒子記念館)に引っ越してきたそうです。
尾上柴舟・岡山高蔭を師事
昭和5年に尾上柴舟(おのえ さいしゅう)に弟子入りしますが、かな文字だけでは満足できず、その1年後、昭和6年より漢字も学ぶため、岡山高蔭(おかやま こういん)に弟子入りしますが、昭和20年に岡山高蔭は戦後を待たずに亡くなってしまいます。
その後、恒子さんは門下に入っていないそうです。
書家の道が開花
昭和8年に土佐日記で、当時かなの最高賞だった泰東書道院東日・大毎賞を受賞し、書家の道を歩み始めます。
展示会場には土佐日記(初巻)、関戸本古今和歌集、秋はゆふぐれ(枕草子)が展示してあり、かな書の流れる筆運びと力強い漢字の止め、はね、はらいの墨の濃淡が恒子さんの優しい気配りと一本筋の通った強さを感じました。
旧書斎について
展示室の奥のお部屋は旧書斎で、旦那様が恒子さんのために造ったお部屋と聞きました。
旦那様は銀座の鳩居堂で支配人をされていた方で恒子さんの書をとても応援していたと学芸員の方から聞きました。
旧書斎には入ることが出来なかったのですが、とても落ち着く環境が整ったお部屋でした。
栄光の美
昭和31年から大東文化大学教授を務められていました。
昭和40年に書家として大変名誉である現在の皇后陛下(美智子様)への書をご進講されていました。当時のお写真を展示室で拝見することが出来ました。
昭和42年に勲五等宝冠章し、昭和55年に勲四等宝冠章を受章しました。
昭和61年9月30日に93歳で永眠されます。
恒子さんが生前に住んでいた自宅を改装し、平成2年に熊谷恒子記念館が開館しました。
私も熊谷恒子記念館に訪れた記念に書斎で書と向き合う恒子さん、恒子さん筆「はる風の(長塚節)」、若山牧水さんの「大なみに」の3枚のハガキを購入しました!
お庭は手入れがされており、ツツジやアヤメといった季節の植物を記念館から眺めることができます。
ちなみに、この周辺は「馬込文士村」の一角で、熊谷恒子記念から数分のところに日本画家の川端龍子記念館と龍子公園があります!
熊谷恒子記念館
東京都大田区南馬込4-5-15
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hakubutsukan/kumagai_kinenkan.html