今回の「ブラタモリ」は、タモリさんの地元でもある東京都目黒へ!
今年6月に目黒区の活性に取り組む「めぐろ観光まちづくり協会」が、一般社団法人化することが決定し、目黒区民である“タモリさん”が名誉会長に就任しました!
なれ親しんだ“東京目黒”の知られざるを歴史をブラブラ歩きながら明らかにする旅を紹介します♪
昨今、目黒駅前はビルだらけになってしまいましたが「目黒駅前商店街振興組合青年部」の皆さんが中心となり無昔ながの暖かさを目黒に呼び戻すため、平成8年から『目黒のさんま祭り』を開催しています。
◆イベントのきっかけ
目黒と言えば、「さんまは目黒にかぎる」でお馴染みの江戸落語・目黒の秋刀魚です。
「さんまは目黒にかぎる!」のオチで知られる落語『目黒のさんま』は、「目黒の良さ」と「秋刀魚の良さ」の両方をわかってもらうためにさんま焼きと生さんまを無料配布している例年行事です。
この辺りは、江戸時代に松平讃岐守・森伊豆守などの上屋敷があり『目黒のさんま』に登場するお殿様(松平出羽守)の早駆けの場所とされています。
会場の中心となる誕生八幡神社も文明年間(1469年~1487年)に太田道灌が夫人の懐妊にあたり、越前国(福岡県)の宇美八幡をこの地に勧請したものと言われています。
無事に男子が生まれたことから“誕生八幡”と呼ばれ、安産の守り神とされている。
日本に数ある八幡神社の中でも“誕生”が付くのは誕生八幡神社だけです。
また、境内には明治42年に合祀された徳川三代将軍・徳川家光ゆかりの「重箱稲荷神社」が祀られていて、重箱を使うお弁当屋さんが商売繁盛の祈願に訪れることでも有名です。
- 誕生八幡神社
東京都品川区上大崎2-13-3
◆目黒が江戸のリゾート?
そもそも江戸時代の目黒や大崎は、江戸近郊の農村であり、諸大名の下屋敷が広がっていました。
江戸市中の人々にとっては、「目黒不動尊」の信仰と門前の賑わいで知られた場所で、少し足を延ばせば訪れることのできる行楽地だったそうです。
江戸時代には「五色不動」の一つとして広く信仰を集め、また江戸近郊の行楽地として門前町は大いに賑わっていました。
「行人坂」から門前までの道筋には茶店や土産物店が並んでいました。
目黒不動尊の参拝客で賑わう門前町の有名な土産が「粟餅」、「餅花」そして「飴」だったそうです。
「桐屋」は、安養院の参道入口に店を構えた有名な飴店で『江戸名所図会』の第三巻には、目黒不動、寝釈迦堂、蛸薬師堂などと並んで、「桐屋」の店先の賑わいが「目黒飴」と題して紹介されています。
◆目黒の坂 行人坂
行人坂は目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂で、目黒駅から雅叙園に下る坂を行人坂(ぎょうにんざか)と言います。
この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路でした。
“行人坂”の名前は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによるもの。
寺伝では、寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。
◆目黒行人坂 大円寺
江戸の大火で二番目に大きい火事だと言われる「行人坂の火事」の火元だと言われています 。
大円寺に八百屋お七と吉三のお地蔵と木像が残っています。
- 大円寺(だいえんじ)
目黒区下目黒1-8-5
目黒駅から徒歩3分
◆太鼓橋
行人坂を下ると目黒川にかかる橋があり雁歯橋とも“太鼓橋”とも呼ばれていましたが、現在は後者が太鼓橋”の名になっています。
その当時使用された石材は寺の境内に置かれており、“太鼓橋”の往時の景観は、広重の錦絵名所「江戸百景・目黒太鼓橋より夕日の岡」に残されている。
◆瀧泉寺(目黒不動尊)
瀧泉寺は、東京都目黒区下目黒にある天台宗の寺院です。
不動明王を本尊とし一般には目黒不動の通称で親しまれています。
「目黒」の地名は“目黒不動”が由来するとの説もあるそうです。
江戸の町から日帰りで参拝できるという絶妙の距離感もあって、門前町は大にぎわいだったといいます。
開創以来千二百餘年を閲する今日も変ることなく、鎮護国家並びに萬民豊楽を祈念して、護摩供が毎日厳修され、毎月28日の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れます。
釈迦如来像、五百羅漢像、阿弥陀三尊など重要文化財が納められ、新東京百景指定されています。
- 泰叡山護國院 瀧泉寺
通称:目黒不動尊
東京都目黒区下目黒3-20-26
◆防衛省の研究施設
大名屋敷を支えるためにつくられた用水の痕跡をたずねて、普段は立ち入り厳禁の防衛省の研究施設へ!
幕末から明治初期頃、「目黒川」の岸辺には水車が設けられ、製粉や精米などが行われていました。
明治中期頃になると煙草製造や薬種精製など工業用途にも使用されはじめ、一方、江戸初期に「玉川上水」から引かれた「三田上水(後の三田用水)」は、上水道としてだけでなく、周辺の農民にも灌漑用水として余水の利用が許されて、農村の経済を支えていました。
明治に入ると、同用水は工業にも使われるようになり「目黒火薬製造所」(現「防衛省防衛研究所」)や「日本麦酒醸造会社」(現「サッポロビール」)が現在の目黒区三田に設立されて工業化が進みました。
◆現在の目黒川と三田用水
現在の「目黒川」の様子です。水車は電力の普及と昭和初期に完了した「目黒川」改修工事で姿を消した。
「三田用水」は1974(昭和49)年に通水が停止され、役目を終えたそうです。
◆目黒雅叙園
さらに日本初の総合結婚式場として有名な目黒雅叙園へ!
目黒雅叙園の「百段階段」は、平成21(2009)年3月、東京都有形文化財に指定されました。
「百段階段」とは通称で、かつての目黒雅叙園3号館にあたり、昭和10年に建てられた目黒雅叙園で現存する唯一の木造建築です。
食事を楽しみ、晴れやかな結婚式などの宴が行われた7部屋を、99段の長い階段廊下が繋いでいます。
階段は厚さ約5cmのケヤキ板を使用しており、階段で結ばれた各部屋はそれぞれ趣向が異なり、各部屋の天井や欄間には、当時屈指の著名な画家達が創り上げた美の世界が描かれています。
“昭和の竜宮城”と呼ばれた目黒雅叙園の建物の特徴は、装飾の破格な優雅な豪華さです。
豪華な装飾は桃山風、更には日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸文化に属するものとも言え、なかでも「百段階段」は伝統的な美意識の最高到達点を示すものとされています。